アンテナ
No.63
2004.7.26
熊本大学教職員組合
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〈ウニベルシタス〉の崩壊—法人化後の大学「改革」批判—
(1)大学教育における「質の確保」とは何か

はじめに
 国立大学の法人化を契機に、堰を切ったように動き始めた教育改革の激流は、これまでの大学の「古き伝統」を、良き伝統/悪しき伝統の区別なく、いっきに押し流しつつある。しかもその流れは、大学の「個性」に応じた様々な支流へと分岐するのではなく、巨大な一本の流れへと合流しようとしている。その行きつく先には何が待ちうけているのか。大学審答申のいう「競争の中で個性輝く大学」なのか。それとも……。
 最近、大学評価準備委員会の作成した「大学評価基準(機関別認証評価)(案)」(2004年2月)なるものが配布された。これは、認証評価機関の一つ独立行政法人大学評価・学位授与機構が、2002年に改正された学校教育法第69条の3の規定に基づき、国・公・私立大学の「教育及び研究、組織及び運営並びに施設及び設備」などの状況について評価するというものである。実施案では詳細な基準項目が設定してあり、これでは大学改革論の独自性や多様性などというものはまったく否定され、国・公・私をこえた特定の(基準項目にそった)大学像、教育像が押し付けられていくことになる。一元的尺度で評価付けられた大学あるいは大学教育には、もはや個性など望むべくもなく、「偏差値」に代わる新たな一元的序列化のもとに置かれた大学は、熾烈な「生き残り競争」に駆り立てられることになろう。すでに進められてきた個々の大学の中期目標・中期計画の作成基準のポイントは、大学の現状を的確に踏まえた上でいかにして大学の個性を打ち出していくか、というよりも、その「個性化」の中身も含めて文科省の諸答申の提案事項をいかに多く先取りするか、にある。改革という名の「忠誠競争」は、法人化後いよいよその勢いを増している。このままでは、そこから教育と研究が育つ土壌であるはずの「自由の空気」(1946年米国教育使節団報告書)は大学の場から消え去り、常にプレッシャーにさらされつづける閉塞空間の中で、学生も教職員も競争のレールを走らされることになってしまう。
 熊本大学でも、大学評価への対応を理由に様々な「改革」案が矢継ぎ早に登場している。大学評価本部では「教員の個人活動評価」の「指針」ならびに「要項」が策定され、現在、各部局等にそれに基づいた「要領」の作成が求められている。また6月末に「厳格で一貫した成績評価の方針(案)」が示され、各部局等での審議が進められている。本紙では、数回に分け、とくに「厳格で一貫した成績評価」、「学生による授業評価アンケート」、そして「教員の個人活動評価」の3点について、その問題点を明らかにするとともに、大学人が追求すべき本来の教育のあり方を、ラフな形ではあるが提示してみたい。

大学教育における「質の確保」とは何か
 ここではまず「厳格で一貫した成績評価」の背景にある「教育の質の確保」という問題を取り上げたい。大学教育における「質の確保」とは、とくに90年代後半から、財界首脳や政府筋によって強く要求されてきたものである。例えば、現在の大学改革の「バイブル」と言える大学審答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(1998年10月26日)には次のような一節がある。
「高等教育の大衆化と学生の多様化が一層進展する中で、…学部段階における教育機能の充実強化を通じた卒業生の質の確保を図ることが必要である。…大学は公共的な機関として、社会に貢献する人材の養成に当たるという役割を担っており、学生に高い付加価値を身に付けさせた上で卒業生として送り出すことは大学の社会的責任である。」
 ここで言う「質の確保」とは何か、今一つ判然としないが、次に「学生の卒業時における質の確保を計るため、教員は学生に対してあらかじめ各授業における学習目標や目標達成のための授業の方法及び計画とともに、成績評価基準をシラバスなどに明示した上で、厳格な成績評価を実施すべきである」とあるように、その質は教育機能の中でもとりわけ「厳格な成績評価」によって得られるものらしい。そしてそれに続く「厳格な成績評価の実施により最低限の質の確保を行なう」という文言でようやく合点がいく。つまり卒業までに粗悪品はしっかりと選別排除して品質保証せよということなのだ。
 しかもその質の保証のためには、能力主義的選別だけでは足りないらしい。「学期末の試験のみでなく学生の授業への出席状況、宿題への対応状況、レポート等の提出状況等、日常の学生の授業への取組と成果を考慮して多元的な基準を設定」し、学生の意欲や態度まるごとが、厳格な評価の対象となるのだ。ときに150名を越す大ゴマ授業を複数かかえる現場教員からみればあまりに非現実的だが、「そんなのは無理だ」と言ってすまされるものではない。今後、そうした具体的な取組みが「大学評価」あるいは「個人活動評価」の対象となっていくからである。
 先の「大学評価基準(機関別認証評価)(案)」には、さらに次のような「基準」が登場する。
「雇用主に代表される関係者から、卒業(修了)生が在学時に身につけた学力や資質・能力等に関する意見を聴取するなどの取組を実施しているか。また、その結果から判断して、教育の成果や効果が上がっているか。」
 この評価の「基本的な観点」において、大学の教育が企業の人材要請にこたえることは当然の前提だとみなされている。教育の成果や効果は、もはや大学が独自に判断するものではなく、「雇用主」の評価を通じて判断されなければならない。教員の教育行為は、認証機関による評価、大学による個人活動評価、学生による授業評価、そしてこの「雇用主」をはじめとする学外者の評価等、幾重にもかさなる「評価」(というよりむしろ「評定」)の網の目によって監視されることになる。
 これが大学生の学びのあり方に今後どのような影響を与えるのか。果たして経済界の期待するような有能な人材が生まれてくるのか。それとも大学での学びがよりいっそう空洞化し、知的欲求、個性や創造力とは無縁な「優等生」を大量に生み出すことになるのだろうか。
 大学における真の学習のあり方を「学びへの学習(Leaning to Learn)」と呼ぶアメリカの教育哲学者ジェリー・H.ギルは、今日の大学教育の現状を次のように批判する。
「教育は、知の過程、学びへの学習と関係するのであって、資格授与に利用しようなどと目論むべきではない。そんなことをすると、ただでさえそうなりがちなのだが、目標の達成を確実にするために発達した手段がいとも簡単に目標そのものにすりかわってしまうからだ。」
 ギルによれば、教育とは、学習が常にさらなる学習へと動機付けられていく過程であり、「よい成績」を獲得するための手段であってはならない。手段化された学習にもはや学生を真に動機づける魅力などないからだ。大学教育が産業界へと水路づけられればられるほど、「学び」の本質は失われ、代わりに手段化された学びが幅を利かせるようになる。いわば「就職予備校」化する大学の下で、学生の知的関心は枯渇し、学生の学びはただ序列と競争によって動機づけられ、主体的学びの風土は消えうせる。
 大学改革を声高に主張する大学関係者が口にする言葉に「大学人はもっと社会の声に耳を傾けるべきである」というものがある。ここで言う「社会の声」というのは、「企業の声」と言った方がより正確であろう。この「社会の声」の一つの典型が、中央教育審議会などにも参加し、文科省にとって最も耳を傾けるべき相手、経済団体幹部の声である。
  • 「まず産業界が大学に期待するのは、その企業独特のある分野に関するスペシャリティを備えた人材で、戦前の学校体系でいえば専門学校型の知識を持った人です。もう一つは会社の意志決定にかかわる幹部要員で、国際的な舞台でも通用する教養やディベートの能力が求められますが、これは一握りの人でいい。五百五十ある大学がすべて同じ教育をする必要は全くない。」(経済同友会幹事 桜井修 日本経済新聞1996/1/14)
  • 「21世紀の大学像を考えるに当たって、研究重視の大学、専門教育重視の大学、教養教育重視の大学、生涯教育重視の大学というように、大学を種別化する議論を今後していかなければ、現在の大衆化時代の大学というものを想定できないと思う。」(前経済同友会教育改革委員会委員長 桜井修 第四回大学審議会基本構想部会1998/1/22)
  • 「現在の産業界の人材需要では、学部卒はそれほど必要としてはいない。むしろ、高校卒や中学卒でやってもらいたい仕事の方がたくさんある。しかし、そのポストさえも、現在は学部卒が占めつつある。産業界のニーズからすれば,今の学部卒の量は多すぎる。」(同上)
 これらの大学改革への要求は、日経連が1995年の『新時代の「日本的経営」』に示した雇用戦略に対応している。この文書の中で、日経連は、従来の日本型雇用慣行を廃棄し、それに代わる雇用の三類型、①「長期蓄積能力活用型」②「高度専門能力活用型」③「雇用柔軟型」を提起している。①は、これまでの終身雇用、定期昇給を前提とした雇用でこれは一部の幹部社員に限る。②は、任期付雇用の専門技術者で、給与は年俸制や成果主義、③は、アルバイト、パート、派遣社員であり、いわゆる「フリーター」がこの類型に入る。桜井氏が最初に大学に期待する人材としてあげているのは、①と②に対応しており、種別化(というよりも差別化)された大学類型の「研究重視」、「専門教育重視」での養成が想定される。そして「教養教育重視」は、無論③に対応しているが、ここは産業界のニーズからすれば大卒である必要もないので、少子化のもとで大学のリストラが進められていくことになる。そして③の「生涯学習重視」とは、いわば大学の「カルチャーセンター」化であるが、これは産業界の関心の埒外であろう。
 大学が「社会の声を聞く」ということは、結局はこのような財界の雇用戦略に大学教育が追随することを意味する。現実に雇用の流動化が進んでいる中で、②の類型をめざす大半の国立大学では、その就職予備校化が露骨に強まることになろう。だが、「社会の声」あるいは「企業の声」といっても一様ではない。企業家の中には、例えば次のような声も存在することに注意を促したい。
「大学時代というのは、以前だったら革命だったのかもしれませんが、経世済民とか国を変えてやるとか、大きな志をもっていいし、それがだめだったら大きく堕落してもいい、そういうことが許される時期です。一人の人間の人生というものを考えたときに、何の役に立たないけれど、そこでしかできないことがある、とても貴重な時代なんです。ただ役には立たないけれど、人間の内部ではいろんなものが成熟していく。学問でも政治でも恋愛でも、あるいは演劇みたいなサークルでも、何でもいいんですが、壁に突き当たって自分の頭で考えたり、場合によっては死にかけたりする。そういうことの中で成長していく。そのときに志が大きければ大きいほどいろんな壁にぶつかるわけです。壁にぶつかるということが一番大事なことなんですよ。その壁にぶつかったときに、どういうふうに対処するのかというようなこと、これこそを学生は学ぶわけですね。…壁に突き当たったときにそれをどうやって壊してブレークスルーしていくか。それを学ぶためには、自分で壁を作らなければいけない。リスクをとるというのはそういうことです。こうした能力が、実はビジネスの側からの本当の要請なんです。」平川克美・株式会社リナックスカフェ社長(『季刊インターコミュニケーション』No.48より)
(文責 穂坂カオル)   次号へつづく

 

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