アンテナ
No.64
2004.8.26
熊本大学教職員組合
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〈ウニベルシタス〉の崩壊—法人化後の大学「改革」批判—
(2)「学生による授業評価」は大学教育に何をもたらすか

 法人化後の大学改革の「目玉」の一つとして本学で進められているのが「教員の個人活動評価」である。大学評価本部のワーキンググループによって作成された「熊本大学における教員の個人活動評価指針(案)」と「個人活動評価実施要項(案)」ならびに「個人活動評価実施要領(例示)(案)」は、先行する岡山大学、長崎大学のモデルを参考にしたものと言われているが、そこには多くの矛盾や問題点が存在する。今号では、とくに教員の教育活動評価の一部とされる「学生による授業評価」に焦点をしぼり、その問題点を指摘しておきたい。
 教員の「教育評価」は、今回の「教員の個人活動評価」の四領域(教育、研究、社会貢献、管理・運営)の一つであるが、その最も重要な要素が「学生による授業評価」である(教育評価は四つの項目から構成されているが、それぞれのウェートは、「学生による授業評価」50%、「シラバスの評価」10%、「教育の負担と貢献」30%、「教育貢献に対する自己評価」10%となっており、「学生による授業評価」が教育評価全体に与える影響はきわめて大きい)。具体的には、学生に対して「学生による授業評価調査票」というものが配布され、その回答の集計結果を、教員の個人活動評価に利用するというもので、「学生による授業評価実施案」によれば、総合点2以下の科目担当者に対して、改善のための調査・指導が行なわれることになっている。
 この学生による授業評価は、FD(ファカルティ・ディベロップメント)活動の一環として行なわれてきた従来の授業アンケートとは大きく異なる部分がある。従来の授業アンケートの目的はあくまでも教員の授業改善であった。それゆえアンケート項目には具体性が要求され、学生‐教員相互のフィードバックが重視されていた。それに対し、教員の活動評価への利用を目的とする場合、項目には、具体性よりも客観性・中立性が要求され、結果は数値として表わされることになる。そのため教員がそれを見ても自分の授業の何を改善すればよいかは明らかにはならない仕組みになっている。
 今回の「教員の個人活動評価」の実施プランについて、第一に指摘しておかねばならないのは、果たして「学生による授業評価」のみによって教員の教育活動の水準を判断することができるのか、という問題である。先に示したように、教育活動の評価は、「学生による授業評価」、「シラバスの評価」、「教育の負担と貢献」、「教育貢献に対する自己評価」の四項目からなるが、そのうち質的な評価と呼びうるのは、「学生による授業評価」だけだと言うことができる。なぜなら、「シラバス評価」は各部局長が行なうとされているが、その質的評価の基準は何ら示されておらず、「負担と貢献」は、たんに多く仕事をしたということを意味するにすぎないからである。そもそも、それらを「高い水準の活動」とか「低い水準の活動」と呼ぶのは、まず日本語の表現として不適当である。よって、「高い水準」、「低い水準」という言葉が示すいわゆる質的評価は、学生の評価だけである。しかし学生の主観的評価だけで教員の教育活動の「水準」を測るというのは、どう考えても無理がある。初等・中等教育の場合、教師の教育的力量とは、教えた生徒がどの程度学力を向上させたかで判断されるものであり、それは一般に客観テストの結果によってしか計測しえない。それを学生アンケートのみで評価するということを初等中等の教師が聞けば、おそらく絶句するにちがいない。今回のプランは、まずもって教員の教育活動の「水準」を評価できるようなレベルのものとは到底思えない。
 次に実際の「学生による授業評価調査票」を検討してみよう。これを読んでまず気づくのは、全部で六つあるアンケート項目の半数は、学生の立場からの判断や要望を問うものではないということである。例えば、質問3「授業内容は、シラバスに記載された目標と概要に合致したものでしたか。」、質問4「この授業において、用いられた授業方法は内容を理解する上で有効でしたか」等は、明らかに外部の監視・評価者の視点が取り入れられている。つまりこのアンケート調査は、本来管理者が行なうべき評価を学生に肩代わりさせるものなのである。授業アンケートを通じて、学生はもはや受身の被教育者ではなく、授業者の一挙手一投足を監視し評価する者としてたち現れるのだ。
 教員の活動評価に学生の声を取り入れるといえば一見民主的な方法のように思える。しかし、本来は管理者が行なうべき教員の活動評価を学生に肩代わりさせるというこのシステムは、きわめて危うい側面を持っている。学生は教えられる者であると同時に、評価する者であり管理する者のエージェントとなる。その反転した教育関係(権力関係)のなかで通常の教育関係(権力関係)を維持していくというパラドックスにわれわれ教員は果たして耐えられるだろうか。
 他方で、質問2「授業内容は、あなたが期待したレベルのものでしたか。」、質問5「この授業において、授業開始時点から終了時点までのあなたの『知の増加度』(知識、技術、思考方法等)を5段階で評価してください。」などは、今度はその主観性ゆえに別の問題をはらむことになる。ここで言う「期待」、「知の増加度」は、他の設問とは逆にあまりに主観的すぎる。大学教育の何にどの程度の期待を持つかは学生の主観に属する。例えば映画を観る場合、同じ映画でも、期待していなかった客は「意外におもしろかった」と評価し、期待していた客は「意外におもしろくなかった」と評価する。期待と満足はそれほどに相対的なものなのである。また「知の増加度」というあいまいな尺度にも、多くの学生たちは困惑するにちがいない。「知の増加」を知識量ととらえた場合、授業でたくさんの情報を提供した教員が優れた教師であり、情報量が少なければ劣った教師ということになる。あるいは「知の増加」を「賢くなった」というような意味合いでとらえた場合、自己評価の低い学生は教員の予想に反して低い点をつけるかもしれない。そもそも授業の目標は「知の増加」にあるとする前提にも疑問がある。例えば、知識を繰り返し提示することによる「知の定着」という作業もあるし、まったく新しいものの見方を獲得するという「新たな知への気づき」、「知の再構成」といったものもある。「増加」という観念は、学習論的にみてきわめて貧弱なものと言える。
 さらに次のような問題も指摘しておかねばならない。質問3「授業内容はシラバスに記載された目標と概要に合致したものでしたか。」は、実際の授業の内容と目標が、あらかじめ学生に示されたシラバスの内容と目標に合致していなければならないという授業観を前提にしている。たしかに授業というものを教育工学的発想でのみ捉えるならば、これで良しとされるのかもしれない。だが日常的に教壇に立ち、まじめに授業に取り組んでいる者からすれば、これがいかに的をえていないものであるかは明らかである。大学審議会の教育部会ですら「学生の教育を充実する上で、シラバスの作成とその内容の充実が有効である」と記した上で、次のように指摘している。「なお、シラバスを作成する際に、それぞれの大学等の学生の状況や個々の授業科目の特性などについて十分配慮するとともに、あらかじめ余りに詳細かつ固定的な授業計画を立てることがかえって授業の自由な展開を妨げることにならないよう、シラバスの機能について検討することが望まれる。」(大学審議会「大学教育部会における審議の概要—高等教育の一層の改善について—」1995年)
 つまり、シラバスの作成が、実際に教員が行なう授業を縛るようなものであってはならないとわざわざ明言しているのである。本来「良い授業」とは、教師の「教育的タクト」(ヘルバルト)を駆使した臨機応変で「自由な展開」なしには成立しえない。学生との応答によって生じるある種のダイナミズムこそ授業の本質なのである。もちろん「看板に偽りあり」では困るが、先の質問項目が教員のシラバス記述と実際の授業行為をともに縛ることになれば、授業はルーティン化された無味乾燥なものになってしまう。そして学生はそのようなルーティン化された授業を「良い授業」として評価しなければならないという、またもやパラドックス的な事態が生じてしまうのである。
 授業とは教える者と教えられる者の、あるいは教えられる者同士の応答的関係によって構成される。それは理念的な意味でなく、現実のいかなる授業においても妥当する。例えば、二人の教師が共同して綿密な指導計画を作成し、同じ指導案を使って授業をしたとしても、実際の二人の授業はけっして同じものとはならない。また一人の教師が同じ授業を違うクラスで行なっても同じ授業にはならない。それは授業というものが、ある教師とあるクラス集団の相互行為を通じてつくりだされる一つの自律したシステムだからである。ところがこの授業アンケートは、こうした授業の本質について何ら考慮していないどころか、授業とは教える者から教えられる者の一方的伝達行為であるとする授業観を前提にしている。アンケートを書く学生の立場はあくまで教育サービスを受ける消費者の立場であり、授業における学生の参加、主体性、責任の観点はどこにもない。それは、パウロ・フレイレが批判する以下のような被抑圧者の教育モデルに近い。「一方的語りかけは、生徒を語りかけられる内容の機械的な暗記者にする。さらに悪いことに、かれらはそれによって容器、つまり、教師によって満たされるべき入れ物に変えられてしまう。入れ物をいっぱいに満たせば満たすほど、それだけかれは良い教師である。入れ物の方は従順に満たされていればいるほど、それだけかれらは良い生徒である。教育はこうして、預金行為となる。そこでは、生徒が金庫で教師が預金者である。教師は、コミュニケーションのかわりにコミュニケを発し、預金をする。生徒はそれを辛抱強く受け入れ、暗記し、復唱する。」
 大学が、経済界の期待する人材養成観にくみし、教育工学的授業観と質的保証論に立脚する限り、大学教育はまさにフレイレの言う被抑圧者を作り出す教育に堕することになろう。その結果、大学教育が作り出すのは、「押しつけられる受動的な役割を完全に受け入れれば受け入れるほど、かれらはますます完全にあるがままの世界に順応し、かれらに預け入れられる現実についての断片的な見方を受け入れる」(フレイレ)ような人間たちにちがいない。
 このような指摘に対しては、一方通行型の授業であったものが、アンケートを実施することによって、学生との相互性を獲得できるのではないかという意見もある。しかし、授業の度にアンケートを取るならともかく、学期の最後に一度実施するだけでは、学生の意見が当の授業に反映されることはけっしてない。つまりその学生にとっては何のメリットもない。その上、授業アンケートは学生から教員への一方的な伝達にすぎないのだから、応答的関係など成り立ちえないのである。
 またこうした教育工学的授業観については、教育方法学の研究者からも疑義が出されている。教育学者の佐藤学は、MITの哲学教授ドナルド・ショーンの「反省的実践家」の概念に依拠しながら、従来の「技術的実践」の授業に対する「反省的実践」の授業を提起している。佐藤によれぱ、「技術的実践」の授業において教師の実践は、科学的な技術や原理の適用過程、すなわち有効性の実証された科学的プログラムや教授原理で授業を外部から統制する過程と見なされるのに対して、「反省的実践」としての授業は、実践の過程を通じて、教材やプログラムが再構成され、教師自身の認識も再構成される。
 現実の授業という営みは、つねに状況に依存せざるをえず、たんなる知識や理論の実践への適用(技術的実践)に還元することはできない。教師の専門職性を「技術的実践」のモデルによって基礎付けることは困難であり、むしろ複雑な状況の中で臨機応変に思考し実践しうる「反省的実践家」のモデルこそが教師の専門職性にふさわしい。
 しかしながら、授業アンケートが依拠するのは、明らかに「技術的実践」の授業モデルである。授業アンケートが示す「良き授業」のモデルが、個々の大学教員に押し付けられれば押し付けられるほど、本来授業の重要な要素であるはずの「反省的実践」の側面は無視される。それゆえ、大学教員の授業実践は、いよいよ硬直化したものにならざるをえないだろう。
文責 穂坂カオル(仮名)
(次号につづく)

 

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