アンテナ
No.65
2004.10.25
熊本大学教職員組合
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〈ウニベルシタス〉の崩壊—法人化後の大学「改革」批判—
その3問題だらけの個人活動評価—これで大学は「活性化」するのか?—

 丸山真男著『日本の思想』を久方ぶりに読んでいたら次のような一節に出会った。
 「最近もアメリカの知人が、アメリカでは研究者の昇進がますます論文著作の内容よりも、一定期間にいくら多くのアルバイトを出したかで決められる傾向があるというなげきを私に語っていたことがあります。(中略)けれども皮肉なことには、こうした大学の『身分的』要素が、(中略)業績主義の無制限な氾濫に対する防波堤にもなっている」。この本が著わされた60年代の「学問の府」には、まだ昨今の大学改革の「トレンド」を「業績主義の無制限な氾濫」と当然のごとく非難する大学人の良識があったのだと感慨をおぼえた。
 近年、「業績主義」や「成果主義」が企業社会に浸透していく一方で、その弊害も世間の話題となり始めた。経営学の立場から「成果主義」を痛烈に論難した高橋伸夫東大教授の『虚妄の成果主義』(2004年)がベストセラーとなり、最近出版された元富士通社員城繁幸の告発本『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』(2004年)も、1ヶ月で5刷が出るほどの売れ行きである。こうした新たなトレンドを知ってか知らずか、大学当局は「個人活動評価」を、いよいよ今年度後期から「試行」し、さらに18年度から本格実施するという。今号では、この「個人活動評価」の問題点を、大学評価企画・実施会議が6月22日に決定した「教員の個人活動評価実施要項」ならびに「学部教員の個人活動評価実施要領(例示)」をもとに検討してみたい。ただし「教育評価」の部分については前号で取り上げたので、今回は、それ以外の問題点を扱うこととする。
 「実施要領」によれば、評価項目ならびに評価ポイントは、各学部単位で定めるものとされている。現段階では、各学部の内容まで明らかになっていないので、ここでは、さしあたって今年の2月に個人活動評価WGが示した「個人活動評価実施要領(例示)(案)」(以下「例示案」と記す)を参考にしながら、以下その問題点を明らかにしたい。
研究活動評価の何が問題か
 熊本大学において「優れた研究者」とはそもそもどのような教員を指すのだろうか。そのイメージを前提に、研究活動項目のポイント数は設定されているはずである。そこで、「例示案」に記載された評価項目をポイントの高い順に並べて見た。すると、「審査制を備えた機関から間接経費付きの外部資金を獲得した者」10ポイント、「出願した特許等が成立した者」8ポイント、「審査制を備えた国際学術雑誌に論文が掲載された者」7ポイント、「上記の外部資金で間接経費のないものを獲得した者」6ポイント、「審査制を備えた国内学術雑誌に論文が掲載された者」4ポイント、「著書による公表を行なった者」3ポイントの順であった。つまり、本学における「優れた研究者」とは、何よりもまず科研費や特許によって大学に利益をもたらした教員であり、国際的に認められる研究を行なっている教員や科研費を取っても間接経費のない教員は二の次におかれている。「国際水準」よりもむしろ「大学貢献」こそが本学の教員に課せられた研究活動の目的・理念ということなのだろうか。これはあくまでも例示に過ぎないと言われるかもしれない。しかし大学の責任ある部署でこの原案が作成されたことの意味は大きい。「優れた水準の研究」の定義を、まずは「大学財政に貢献する研究」とするWGの評価観は、大学はもはや真理探求をめざすアカデミズムの場ではなく、利益創出のための知識生産工場にすぎないことを大学自らが認めることであり、純粋な教育研究を大学から排除することにつながりかねない。
 もちろん、総ポイント制をとっているため、これだけで「優れた研究者」が決まるわけではない。そこに例示案の2つ目の問題点が存在する。上記項目の他に、「学内紀要」や「学会発表」、「その他の公表」など多数の評価項目があり、一項目のポイント数は少なくとも、業績数で稼ぐことができる。「例示案」の評価は、40ポイント以上=「極めて高い水準」、39〜25ポイント=高い水準、24〜10ポイント=「ふつうの水準」、…となっている。この例示に従えば、間接経費なしの科研費の場合、5年間に4度では24ポイントで「ふつう」にしかならない。毎年国際的学会誌に論文を掲載しても35ポイントで「極めて高い水準」には届かない。毎年「学内紀要」(1.5ポイント)1本では、「ふつう」にはなれないし、「審査制を備えた全国学会誌」(4ポイント)に毎年掲載されても「ふつう」の範囲である。要するに問題は業績の数なのだ。いかに世界的な研究成果をあげたとしても数をこなさなければ、「ふつう」の研究者と同じである。つまり寡作であることは駄作と同じにみなされるのである。その結果、どんな教員も勢い業績数主義に走らざるをえなくなるのである。これは「悪しき業績主義」を大学自らが推進することに他ならない。
社会貢献とは何か
 例示案は、そもそも「社会貢献」をどのようにとらえているのか。「公開講座」、「出張授業」、「併任・兼業」、「非常勤」、「学会の役職」、「会議の主催」、「研究会」、「行政機関の委員会」等々、網羅された項目をみていくと、貢献すべき「社会」の範疇が、きわめてゆがんだ形で解釈されていることがわかる。公開講座はともかく、他大学や所属学会などは世間から見れば「社会」というよりもむしろ「身内」の集団である。また「地域社会・国際貢献」の項目では、貢献の中味が「国、県、市等の委員会委員」ときわめて狭く限定されている。熊大にはNPO活動など様々な民間レベルの地域活動、国際活動に積極的に関わっている教員がいるが、どうしてそれらは「地域貢献」でも「国際貢献」でもないのか。大学の本来のあり方からすれば、行政への貢献のみを社会貢献ととらえるのは、きわめて偏っている。
 本学の16年度中期目標・計画には「社会貢献」に関連して、「地域社会との連携」、「地域における教育の質の向上」、「産学官連携の推進」、「国際交流の推進」の4項目が並んでいる。こ こには「他大学」や「学会」等を念頭に置いた項目はない。「社会」に含まれるのは、あくまで地域社会、産業界、国際社会であって、しかも中期目標・計画では、「教育活動」、「研究活動」それ自体が、社会人の受け入れ、産学連携によって社会貢献として位置付けられていたはずだ。その意味で例示案の項目は、本来、熊本大学がめざす社会貢献のあり方からも逸脱しているのである。
 さらに例示案は次のような問題をはらんでいる。本来研究者であれば、研究活動それ自体を通じて、地域社会や国際社会に貢献したい、あるいは貢献していると考えているはずである。また、学外で非常勤を引きうけたり、講師を行なったり、何らかの委員を引きうけることに使命感を感じているとしても、他方で、学内での職務との兼ね合いで、それに何かしら引け目を感じることもあるはずである。大学当局も、学外非常勤に時間的制約を設けているように、学外での活動は当然学内での仕事のしわ寄せとなると考えてきた。つまり私たちは教育・研究・管理運営といった学内の仕事と学外の社会貢献活動のバランスをどう保つか、これまでも苦慮してきたのである。
 ところが、「例示案」の社会貢献活動の項目をみる限り、今後はもっと非常勤を引きうけろ、学外での教育研究活動に精を出せと言うメッセージとして読み取れる。WGは、4つの項目で示された教員の活動が、あたかも予定調和的に成り立つかのように考えている節がある。しかし現実はそうではない。時間的制約がある以上、どれかを重視すれば、どれかがおろそかになるのは自明のことである。にもかかわらず「社会貢献」活動をたくさんすればするほどポイントが稼げるというのが、「例示案」の原理である。教員が何がしかの社会貢献活動に取り組むことに異議はない。しかし、それを総ポイント制にすることで、何をしたかだけでなく、どれだけしたかが問われることになるのである。社会貢献が単に数の合計として評価されるとき、その貢献の意義や目的、成果は看過されてしまう。それで果たして大学の社会貢献度を「評価」したと言えるのかどうか甚だ疑問である。本来、大学の社会貢献とは、大学内での様々な教育研究活動によって蓄積された豊かな物的資源、人的資源を社会に還元していくということである。そのためには大学構成員の様々な知恵や協力が必要であろう。しかしその成果は、個人活動評価によって積み上げられた個々の教員の諸活動の総和によって示されるものではないはずだ。このままではただ教員の労働強化だけが進み、実りのある社会貢献にはつながるべくもない。
管理・運営項目は「評価」の名に値しない
 今回の個人活動評価プランの最大の問題は、管理・運営の評価項目が、何ら質的な評価となっていないという点である。もしかりに「業績評価」を行なうことに意味があるとすれば、それは「努力に報いる」という点だろう。自分の努力が正当に評価されてこそ、人はやる気を出して働くと言うのが評価主義の基本前提のはずである。しかしながら管理・運営の評価項目に、そうした観点は存在せず、たんに役職にあるかどうかで評価ポイントが決まる仕組みになっている。学内に混乱だけもちこむ管理職や仕事のできない委員長でも、「高い水準」という評価がもらえ、逆にどんなに一生懸命委員会活動に努力し、管理運営に貢献したところで、ヒラの委員であれば、最低の評価しかもらえない。役職にポイントをつけるというやり方では、管理・運営活動を活性化するどころか、むしろ不公平感を助長し、真面目な教員のやる気をそぎ、「無能」な管理職を厚遇するだけである。
 以上のような問題点の指摘に対して、個人活動評価の推進者側が持ち出すのは「試行だから」という言葉である。いろいろ問題があっても「試行」だからやらせてほしいというのである。しかし「試行」と「本実施」の何がちがうのか。全員に「試行」が行なわれ、それが何らかのかたちで公開されれば「本実施」と何ら変わりはない。本年度が本当に「試行」にすぎないのなら、集積された評価の結果をどのように利用するのか明確に示すべきである。
おわりに
 学年歴の変更以前、授業で私は夏休みの課題図書レポートを課していた。しかし夏休み前に試験が終わるため、これもかなわなくなった。これまでは、おそらく他の授業でも課題が出ていて、学生は休み中それなりの量の読書を強要されたはずだが、学生は試験後の課題なき夏休みを大いにエンジョイできるようになった。いったいどこが学生の質的保証なのか。
 学生の学習支援の一環として教員に一律「オフィスアワー」を設けさせると言う。しかし教員が設けた週1回のオフィスアワーに、肝心の学生に授業が入っていれば訪問できない。いったこれのどこが学生の支援なのか。
 いま大学当局が進めている大学改革施策のほとんどは、安易なアメリカ直輸入か、霞ヶ関の役人の思い付きによる代物で、現実の教員や学生の実態を無視した空虚なものでしかない。そしてその最たるものがこの「個人活動評価」である。
 「全体の中での自分のレベルがわかってよいのではないか」という意見を言う教員も中にはいるらしい。それは、幼少期から偏差値教育にどっぷりとつかってきたせいだろうか。しかし、ゆがんだ「全体」像に映して「自分のレベル」を正しく選択することなどできるはずもない。問題は、公平性も妥当性も担保されていない評価項目で、個々の教員に「優れた人」「普通の人」「劣った人」のレッテルをはることが、本当に大学の活性化になるのか、ということである。むしろ大学の活性化にとって大切なのは、競争の名の下に個人をバラバラに評価し分断していくことではなく、大学共同体の一員としていかに教職員の連帯を培い、協同を育んでいくことである。
 ところが、最近も「科研費を申請しない教員は研究費を減額する」という「脅し」の文書が全教員に配られた。研究費が大きく削減され外部資金獲得が死活問題であることは、どの教員も認識している。だからこそ大学、学部として科研費等を最大限獲得するためにはどのような教員の協力体制をつくるべきかを検討することは緊急の課題である。ところが、そうした協力体制ではなく、教員個々バラバラの申請努力を「恫喝」によって引き出そうなどという発想は、根本的に誤っている。これでは個々の教員のやる気を阻害するだけである。社員」のやる気を引き出す方法すら知らない「管理職」の管理運営能力こそがまずは「きわめて低い水準」として「ペナルティ」の対象とされるべきである。(文科省も「聞いたことがない」というこの方針は、新聞各紙にリークされ、全国の大学関係者から失笑を買っている。また熊本大学の「全教員」が科研費申請書を出すという前代未聞の事態におそらく事務サイドは悲鳴をあげているにちがいない。この点に関して使用者側には、労働基準法を遵守するよう強く要望しておく。)
(次号につづく) 文責 穂坂カオル

 

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