アンテナ
No.67
2007.10.24
熊本大学教職員組合
Tel.:096-342-3529 FAX:096-346-1247
E-mail:ku-kyoso@mx7.tiki.ne.jp

 
PDF版はこちら

 
 
熊大教職員の生の声シリーズ 2
−熊本大学基金についてー
なんか不安、「熊大基金」、寄附の「お願い」?!

 「熊本大学基金」について、組合に文系の教員の方から意見をいただきましたので、紹介します。


 「熊本大学基金」がたちあがり、「募金趣意書」と「振込用紙」が届きました。学長から教職員宛に個人名が付されているようです。私には個人名だったのですが、皆さんはどうだったですか。
「募金趣意書」によれば、目的は「知の創造、継承、発展を通じて豊かな未来を拓くこと」であり、挨拶文には「本会員であることが皆様の誇り」になるように、「恒常的」な活動にする、と書かれています。「寄附(学内募金)のお願い」には、「地域社会との共同の証となる『熊本大学基金』の設立に、本学が一丸となって真摯に取り組んでいることをアピールするためにも、重要なものである」と書かれています。
 「誇り」をもって「一丸となって」「アピール」しようという訴えが感じられます。最低一口5000円で、熊本大学教職員すべての人、同窓会関係者や卒業生などに呼びかけるようです。
 本基金によって取り組む事業としては、「人材養成」「社会貢献」「記念事業」があげられています。大学の予算が切迫している状況の中で、自主財源を確保して社会貢献・地域貢献しておこうとする「覚悟」が必要だという考え方もあるでしょう。基金を設けている大学や学部は他にもあるはずです。また、世の中にはNPOへの寄附や「助け合い」募金やお寺の檀家制度、町内会の募金などもあります。この「熊本大学基金」も、ごく普通の話しだといえるかもしれません。
 しかし、募金は、あくまでも「自由意志」なのであり、その目的が具体的に明示され、募金する自分が納得しなければならないはずです。だから、教職員組合も9月6日に学長に対して「申し入れ」を行っているようです。その「申し入れ」は、次の4点です。
(1) 教職員に対し熊本大学基金への寄附を強制しないこと
(2) 熊本大学基金への寄付者名簿を公開しないこと
(3) 支援者発起人については個別に同意を取ること
(4) 寄附に応じなかった教職員に対して不利益な扱いを行わないこと
 私は、この程度のことは、誠実に守られるのだろうと思うのです。しかし、なお若干の不安も抱いていますので、疑問に思うことを書いてみます。

 第一に、事務職員も、それなりの額の寄附をしなければないのでしょうか。ある部局では、教授は1万円、事務職員は課長以上は1万円、と「決まりました」、「賛同できない人は申し出てください」、という報告があったそうです。事務職員にとって「学生支援事業」や「研究助成事業」、「地域貢献推進事業」や「生涯教育支援事業」ということは、自分たちの本務とは直接には関係ないことです。

 第二に、基金・寄附によって行われる業務に教職員が直接に関係するのかどうか、が曖昧なのです。そもそも、研究活動や社会活動に「身銭を切って」参加して、自主的に「会費」を払うのは、その活動の具体的目標に賛同し、自分が直接にかかわるからです。やりたい人が集まって、やりたい事業内容を明らかに示して、やりたい事業に対して出したい金額だけ寄附をする、これは正常なことです。「国際社会に貢献する」といったような抽象的目標のために誇りを持って寄附してください、と頼まれても困るはずです。
 わざわざ金を払って新しい仕事を増やさないと熊本大学は「生き残る」ことができなくなり、「高い評価」を得ることができないのかどうか、それとも本来するべき仕事があるにもかかわらず、お金が足りないから自主的に集めようとしているのか、本当のねらいはどうなっているのでしょうか。

 第三に、寄附の「お願い」が陰に陽に、「圧力」とならないか、という不安です。事務職員だと、上司が寄附したのだから部下も寄附しろ、ということになると、断りにくいでしょう。教員でも、断ったりして目をつけられると、あとあと問題になるから仕方がない、寄附するしかない、ということになりかねません。

 「成果主義」の時代、これだけ大々的に打ち上げられて、全学的コンセンサスがあったかのような風潮になれば、募金を「断る」には勇気がいるのと思うのです。各部局ごとに寄付金の数値目標が決められたりすると、あとは「募金を競い合う」ことにならないでしょうか。第1期募集期間は5年で、目標額は10億円、と書かれています。結局、基金事業に対して「自発的服従」となるわけです。
 だから、組合の申し入れ事項は誠実に守られるべきなのです。万が一守られなくて、ある個人が「精神的苦痛」を感じた場合や、職場で「不利益」が明らかになる個別事例が生じた場合、それは「パワーハラスメント」の恐れがあるのではないでしょうか。後援会関係者に対してもお願いするわけですから、4年次生が卒業する前に頼んで、彼ら・彼女らが断ったらどうするのでしょうか。「上からの要請だ」「目標が決められているんだ」といったように強引な要請をすると、それは「パワーハラスメント」にならないでしょうか。
 この問題は、微妙でありながら、おそろしい事柄に発展しそうで、考えるのが恐いのです。おそろしい話といったのは、この問題を年配の人と話した時に、事態はここまで進んでいるのか、という危惧の念を述べられたからです。つまり、戦前の「国家総動員法」体制、「隣組」制度みたいで不気味だというのです。「お金を払って誇りを持て」、というのは、国家に「自発的に服従」して「鍋や釜を拠出する」ということと、同じ論理になるのです。
 それは、「死活問題」だったそうです。「隣組」の人ににらまれて「上」の人に目をつけられると「配給」が減るからです。他人の愛国心や忠誠心を病的なまでに監視して、それに快感を覚える人がたくさんいた、ということを思い起こすべきではないでしょうか。
 だから、「離脱の自由」ということが、「人権」の重要な要件となるはずなのです。組織や集団へ参加と離脱の保障がなければ、それは一方的「拘束・強制」であって対等の「契約・関係」とは言えないからです。私は、意欲的な大学人が努力をすることに対して異議を申し立てているのではないのです。少数者の不安に対して寛容な大学であって欲しいだけなのです。
 でも、もう動きだしたことなんでしょう。あれこれ批判すると、「みんな」に迷惑がかかることになりませんか。せっかくがんばって議論して準備した人や、やる気になって寄附を募ろうとしている人たちもいるんですよ。こういう声があることも、予想できるのです。
 私はこういう「和」の強要が恐いのです。「和」というものを、無前提に強調して、そこから離脱するものを許さない、という風潮は、今でも残っていると感じます。「和」というものは、基準があいまいな「掟」みたいなものですよ。私はすでに2万円も寄附したのに、あなたはたった5000円なのか、ということがきっと起こります。さぐり合いや疑心暗鬼が広がって、暗い雰囲気の職場になりませんか。
 ちょっとでも疑問や異議の声をあげようとすると、陰に陽に攻撃される可能性は否定できないでしょう。これは「精神的苦痛」ではないのですか。杞憂であることを願っています。

組合員・非組合員を問いません。
教職員の生の声をお届けください。


 

アンテナの目次に戻る